リアリティーの欠如はどこからくるのか。それはクラブがあくまでお金をとる空間だからである。お金をとるためにはそれなりの高級感、格式が要求される。そのためにオニックスのテーブルが置かれ、オニックスの灰皿が置かれ、ソファーは革張りで、女性はシャネルスーツを着ているのである。建築家のチャールズ・ムーアがディズニーランドについてこういうことを言っている。ロサンゼルスにはいわゆる街というもの、つまり昔の街ならどこにでも存在していたような、歩行者のカルチャーというものがない。
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それを味わうために、人は入場料を払ってディズニーフンドに行くのだと。これはディズニーランドではなく、そのままクラブにもあてはまる指摘である。クラブ派の人々は(あるいはわれわれは、かもしれない)いわゆる家庭というものを、もはや体験することができない。それを味わうために彼らはとてつもない高い入場料を払ってクラブに足を運ぶのである。そしてディズニーランドが街そのものでは決してないように、クラブは家庭そのものでは決してない。ディズニーランドがリアリティーの欠如した街のコピーであったように、クラブとはリアリティーの欠如した住宅のコピーなのである。これはある意味でコピーの宿命であり、そしてお金をとる空間、入場料をとる空間の宿命である。しかし話はここで終わらない。クラブ派においては、さらにその先があるのである。すなわち家庭のコピーであったはずのクラブのスタイルを、こんどは本物の家庭が再びコピーするのである。なぜ本物の家庭は、このニセの家庭を、家庭のディズニーランドをコピーしなければならないのか。